学校なんて行かなくていい!その意味をそれぞれが考える時がきている

 

こんにちは!ディラン先生です。

当ブログにお越しくださりありがとうございます。

 

本記事は、学校なんて行かなくていい!その意味をそれぞれが考える時がきているというテーマで書いています。

 

僕は小学校の教員、10年選手になります。

学校現場の価値のない価値観をアップデートしていこうと、情報発信をしています。

 

いち教員として大きなことはできないかもしれませんが、小さなプチ改革を起こしていきたいと考えています。

学んだことが意識せずにできるようになってきた

4年前から本格的に、コーチングやカウンセリングのスキルを学びはじめたんですが、今すごく役立っています。

意識せずとも、子どもの可能性や能力を引きだすことが、前よりも自然に行えるようになってきました。

 

これを、【無意識的有能】といったりします。

 

10年前に教員に転職したときからずっと持ち続けている自分のテーマは、

「いかに子供の可能性を伸ばせるか」「夢を叶える確率を上げてあげられる指導ができるか」でした。

 

今年度、勤務先が異動になり、新天地で働きはじめていますが、子どもの特性もこれまでと全然違って、関わり方も子どもにあわせたものにしていかないといけないなと感じています。

 

現時点での学力が著しく低い児童には、超がつくほど繊細なケアを施してあげないといけません。

自己効力感、勇気がくじかれまくっていますから。

 

そのような際の関わりにおいて、コーチングやカウンセリングのスキルや考え方はすごく役立ちます。

 

今年は担任ではなく、各学級のフォロー的な役割を任されていますが、先日は、漢字テストが0点の子をサポートしました。

10分くらいの短い関わりです。

 

「先生が必ず100点とれるようにしてあげるよ。」

と宣言して、覚えるコツをゆっくり教えてあげました。

 

まったく書けていなかった子が、10分後には8割正解できるようになりました。

時間がきたので、その場はそれで終えましたが、今後、その子は上昇していくかと思います。

 

今回で無理だったとしても、何度か同じように小さな成功体験を積むことで、見違えるくらい子どもは変わっていきます。

勉強することが苦痛でなくなりますから。

 

成功体験を味わえる道具に変わるので、主体的に学べるようになってくれます。

 

ここで大事なのは、漢字が書けるようになることもですが、

自分もやればできる!アホなんかじゃない!

ここからでもやり直せる!と気づかせることです。

 

教育技術を活かすことで、その子の学力を伸ばすことができますが、それだけではなく、

人間関係を築いて、その子のやる気と勇気を引き出し、

絶対大丈夫だよ!と寄り添ってあげることがとても重要になります。

 

担任をしていると、一人一人に細やかな指導ができないこともありますが、今年度は自由に動けるポジションをいただけたので、

学力の底上げと、傷ついた心のケア、子どもたちの可能性を引き出してグンと伸ばしていこうと思っています。

学校なんて行かなくていい!の本質は何だろう

多くのインフルエンサーと呼ばれる成功者たちが口をそろえて、学校なんて行かなくていい!

といいますが、それの本質って何なのでしょうかね。

 

彼らは単に、学校や教師を叩きたい輩ではなくて、学校に行くことの意味のなさを的確に言い当てています。

かなり的を得ています。

 

学校はいまだに、これからの時代で求められることや、新しい時代を生きていくための術など、ほぼほぼ取り入れようとしないですし、

何十年も前のしきたりや振舞いを今も子どもに強制させています。

 

ちょっと新しいことといえば、プログラミング教育をやっていきましょう!ってことくらいで、それでも何周遅れですか?!というところです。

 

つまり、これからの時代を生き抜くためには、学校に毎日通うことは、時間のむだ使いだということです。

 

いまの学校教育では、これからの時代を生き抜く能力は身につかないということです。

 

ひと昔、ふた昔前の、生産工業が盛んだった頃の優秀な社畜になるための教育を、当然のごとくいまだにやり続けていますからね。

 

だけども、だけどもね、それが100%正解でもないかもしれません。

思考停止で、インフルエンサーが言うならそうだよな!ではちょっともったいないじゃないですか。

 

学校に行くことのメリットも少なからずあるっちゃ、ありますしね。

 

だから教師も、親御さんもそれぞれに、なぜ学校なんて行かなくていい!っていう意見が、成功者と呼ばれる人たちの口から出てくるのかを、立ち止まって、各々に真剣に考えた方がよい時期がきているのではないかと僕は思っています。

 

で、僕なりに考えることですが、僕はそもそも学校は否定派なんですよ。

子どもの頃から学校も教師も嫌いだったし、30歳までは教育と全く違う人生を歩んできましたから。

 

なんなら学校をぶっ壊す!くらいの気持ちで教員になったので、僕は学校なんて無理していかなくてもいいって昔から思っています。

 

ただ、自分と関わる子にはそう思わせないように、最大限できることはやって、

学校に来たいなと思えるような努力はしてきたつもりですけどね。

学校にきて削がれるなら、来ない方がいい!

学校って、本来、社会にでていったときに生きていける能力をつけるべき場所だと思うんですよ。

 

文科省の指導方針、ねらいもそこをうたっています。

 

だけど、実際の現場では、多くの指導者が子供の勇気くじくような関わりをしたり、可能性の芽をつんでしまったりしているように思います。

 

まず、学校文化には、くだらない、教師の価値のない価値観が多すぎます。

それを、当たり前のように子供に強要しすぎです。

 

10年前に教員になって、いろいろな事に衝撃を受けました。

 

自分が子どもの頃の、30年前となんらやっていることは変わっていません。

 

「教師に意見するとは何事や!」とか、

「ろうかは靴で移動することになっているんだから、教室の前を掃除するときも靴にはきかえなさい!」とかね。

 

毎時間、授業のはじめにだらだらと起立、礼をするのもそうですし、朝礼の列が歪んでて怒鳴られることもそうです。

 

宿題をださなくて、永遠と説教され続けるのも、子どもの勇気を削ります。

 

させていることの意味は、教師の主観でしかなく、ある種、趣味でしかありません。

子どもを思い通りに動かしたいという欲求を満たすためのね。

 

指導者は熱心に仕事をしている方が多く、自分が子供の可能性をつぶしているという自覚がない人も多くいるのではないかと思います。

そこがまた危ういところなのです。

 

そんな環境下では、必然的に集団になじめない子や、理解が遅い子、指示を聞き取るにのが苦手な子などは確実にはじき飛ばされて、削られていきます。

 

僕が子どもの頃も同じような経験をしてきました。

 

その結果、自分は無能、バカ、アホ、落ちこぼれだからチャレンジなんて・・・という心を育ててしまいます。

これが、勇気をくじくということです。

 

ほんとは、誰にでもチャンスも可能性もあるし、能力だってある。

 

そこを丁寧に引きだして伸ばしてあげれば、それぞれの場所で輝けるのに、教師の枠、学校の枠にはまらない子は否定され、強要され、

枠に収まったようにさせられています。

 

こんな指導をいま、令和という時代においても、平然とあらゆる学級で行われているのですから、

自分の子を学校に通わすとなると考えものです。

 

各家庭、当然仕事もありますから、学校に頼らざるを得ない状況もありますが、

子どもの人生にとってかけがえのない1年、1年を旧式のスペックしかインストールされていない教員からジャッジされて、否定されて、

輝ける可能性も削られるくらいなら、学校なんて行く必要はない!と僕は思っています。

 

当然ですが、すべての学級、指導者がこれに当てはまるとは思っていません。

中には、愛情に溢れた指導をする方もいますし、目を見張る授業をされる方もいます。

 

ですが、時代にマッチした、子どもを伸ばせる教育を行なおうとしている教員はごくごく少数だと思います。

 

それは、主体的に学ばない教師が多すぎるに尽きるのですが。

漢字テストは何のため?成績をつける材料?

小学校にがぎって言えば、漢字テストは何のために行うのでしょうか?

成績をつけるためととらえている教師は大バカヤロウだと僕は思っています。

 

自分の目先の仕事のために、子どもをふるいにかけて、できなかった子には、アホの烙印を押してしまうわけですから罪は重いです。

 

教師には人の人生をふるいにかける権限などありません。

どの子も公平に達成感や成長を味わえる環境を作るべきです。

 

本来、漢字は社会で生きていく上で必要になるもので、最低限、身につけておいた方がよいものです。

つまり、預かった子ども、全員を満点にしてあげられないと、勉強している意味がなく、教師は敗北に値します。

 

とはいえ、子どもそれぞれの特性もありますから、実際はそうはいかないこともあります。

ですが、それくらいの気概をもって臨まないとヤバイってことです。

 

超残念な指導の例をあげると、

1回のみの漢字テストをやって、

「はい、0点。しっかり勉強してこなだめじゃないか!」

という教師がいますが、これは職務放棄です。

 

こんなシャレみたいな指導者も実際にいます。

 

1回でできなかったら、2回、3回、4回とやって、必ずできたと味わえるようになるまでにもっていかないとだめだと僕は思うんですよ。

 

ただし、回数を重ねればよいというものでもなく、苦手な子に痛みを感じさせないように取り組んでいくことが大事だと思います。

 

たとえば、1回目、2回目は練習テストね~というかたちで、ノンプレッシャーで受けさせます。

 

1回目の結果をみて、どのように改善していけばよいか、子どもも教師も次の手立てを考えます。

2回目、少し伸びて、30点になったとしたら、大いに頑張りを認めて、次は何点取るかの目標設定をします。

 

こうやって、子どもをふるいにかけるためにテストを使うのではなく、ブラッシュアップしていくための道具としてテストを行うのが、

本来、必要なのではないかと僕は思っています。

それは机上の空論だと?全然できます!

そんなにしょっちゅうテストなんてできる時間がないし、丸つけがとんでもないことになるという方もいいますが、

時間は、これまでの常識にとらわれて奪われてきたことを削ればじゅうぶんに確保できます。

 

例えば、連絡帳を書く時間。

これを授業のどこかの時間で行っているのであれば、朝登校した際に書かせておけばすみます。

 

また、連絡帳チェックなども毎日などやらずに、頻度を減らしていくなり、最終的にはほとんどチェックしなくてもきっちり書ける子どもを育てることが大事だと思います。

 

そうすれば、大幅に時間は確保できます。

 

漢字テストでいえば、10問程度ですから、覚えていれば2,3分あれば書けます。

その後で、子どもどうしで丸つけをさせて、最終で教師が確認のチェックを行なえば、丸つけはそれほど負担にはなりません。

 

成績に反映させるテストのみ教師が丸つけをしてもよいかと思いますが、学級全体が100点を取れる状態でテストに反映させてもそれほど意味がありません。

 

つまりは、社会にでて必要になる最低限、身につけておくべき力は、ふるいにかけて順位付けなどしてはいけないということです。

 

息をするのと同じような感じで、漢字テストの頻度を増やせば、クラス全体の平均点は自ずとあがりますし、

全員が成長を感じることができ、次へのステップに生かすことができます。

 

ということで、今回は学校になんて行かなくていい!ということについて各々で考えてみようというテーマについて書きました。

 

学校現場で実際に働いていると、いろんなジレンマにさいなまれますが、少しでもより良い子どもの未来につながるためにできるプチ改革を起こしていきたいと思います。

 

貴重なお時間をありがとうございました!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です