ディラン先生の自己紹介・第ニ章【高校~進路編】担任のあの言葉だけは忘れない

 

 こんにちはディラン先生です!(@dylan_sennsei)

 

当ブログにお越しくださりありがとうございます。

 

この記事は、ディラン先生の自己紹介・プロフィール【高校・進路編】となっています。

 

こんな内容です・良い教師は二人だけいた
世の中捨てたもんじゃないな

 

 

・工業校への進学が続・地獄への始まり
そこはまさにアナーキーインザ土木科
お金が全てじゃないは大ウソだ!!

 

 

・クソ教師の言葉があって、今の自分がある
「お前はいくら磨いても宝石にはなれない!」

といった感じで、僕の高校から進路決定までの道のりもけっこう波乱万丈なもので、人生において、出会いとお金は本当に大事だということについて書いています。

 

ディラン先生ていったいどんな人間なんだろうと、少しだけ興味のある方は、今回も包みかくさず書いてますので、良かったら読んでみてください!

良い教師は二人だけいた

小学校、中学校と、それはそれはアホみたいな環境の中で9年間過ごしてきたので、もれなく僕もアホに出来上がっていました。

 

勉強ができるとかそういうのではなくて、人生ってこういうもんなんだと絶望の悟りをひらいてしまうアホになってしまっていたのです。

 

人生なんていつでも、どこからでもやり直しはきくんだと今なら言えますが、中学生の僕は、ノミより小さなマインドになって”どうでもええねん人間”に成り下がっていましたね。

 

そんなクソのような公教育の中でも、2人だけ尊敬できた教師がいました。

1人は野球部の顧問。

もう1人は、サッカー部の顧問だけど、ほんとは野球がやりたい体育の教師でした。

 

野球部の顧問は、おもいっきりどつきますが、普段の愛情が本物でした。多分。

 

子供って超繊細なので、大人の内面なんてなんとなく肌で感じ取ってしまうんですよね。

 

今ならどつくのは間違いや!ってツッコミますが、それを差し引いても僕の人生においては一番の教師でした。

 

エレキギターが鬼クソうまくて、一度だけ講堂でアンプを繋いで速弾きをしてくれたんですが、中学生がみんな食いついていました。

 

教師としての僕はその姿に少なからず影響を受けていると思います。

 

長年病気をされていて、この先もきっと会えることもできないんですが、この人に出会えたことは僕にとってデカかったです。

野球好きのサッカー部顧問は、イメージで言うと阪神の矢野監督のようなタイプです。

金本監督タイプではないですね。好きだけど。

 

中学生を一人の人間として尊重してくれる、当時としては超レアな教師でした。

無理やり押し付けることなく、対話で気づかせてくれる兄貴的な存在でしたね。

 

僕が教員になってから、飲みに行きましょう!と誘ったら快くO.Kしてくれて、20年ぶりくらいに再会することができました。

 

ゴワゴワ剛毛ヘアーが特徴的だったその先生の髪はすっかり抜け落ちてしまっていて、まるで坂田利夫かのようなおっちゃんになっていたのが衝撃的でした。

 

生きる者、確実に老いていきますね。

 

僕はこの二人に出会っていなかったら、きっと教師にはなろうとは思いませんでした。

 

救いようのないバカヤロウばかりの中で、この二人の存在が、少しだけ人生すてたもんじゃないかも?

と思わせてくれたのでした。

将来の夢をミュージシャンか教師で迷う進路

スマホもパソコンもない時代ですから、将来の夢を決めるにも情報が少なすぎました。

 

単純に情報がなさすぎるので、実家の土建屋を継ぐか、教師になるか、ミュージシャンになるか、ラッキーヒットでプロ野球選手になるかの全く統一性のない4択でした。

 

今ほどではないですが、その当時、大不況がまもなくやってきて就職難の時代がやってくるらしいってことで、浅はかな僕は一番手堅い、実家を継ぐという選択をしました。

 

その選択があらたな地獄への入り口だとは知らずに・・。

 

進路を最終決定するまでは、教員を目指すか、ミュージシャンを目指すかで結構悩みました。

 

ミュージシャンは、なんとなく自信があったからです。

音楽が好きだったので。

根拠のない自信てやつです。

 

ただ、二人の教員に影響を受けたこともあり、教師の仕事にも憧れをもつようになっていました。

 

ですが、情報弱者はいつの時代も損をします。

 

一番手堅く、無難がよいってことで、工業高校に進学して土建屋になるための技術を学びにいく選択をしました。

 

15歳ですよ。

当時の僕の頭をひっぱたいてあげたいです。

 

それだけはやめとけー!!!って。

工業高校への進学が続・地獄の4丁目の始まり

そして、悪夢の3年間が始まりました。

まず何が辛いって。

アホばっかりなんですよ。

自分も人のこと言えなかったですが。

 

入学してから分かったのは、その高校はいくつかのスポーツで全国常連校だったので、スポーツ推薦でじゃんじゃんスポーツバカ太郎を受け入れていたんですね。

 

そしてその高校は、工業科と普通科を併設していて、工業科には大量のスポーツバカ太郎が集結していたわけです。

 

なので、クラスの半分以上は何かの部活に所属している人たちだったのです。

 

彼らにとっては、勉強よりも部活が重要な仕事なので、授業中は基本寝ているか、ウォークマン聴いているか、おにぎりを食べていました。

 

僕の前の席の水泳部ゴリラマッチョ君は、休み時間になると、スピーカーの音量全開で安室奈美恵を流して、ウィスパーボイスで一緒に歌うんです。

黒人かっ!

 

もう、まさにアナーキーです。

教室の床はごみだらけ、脱ぎ捨てたジャージが散乱している状態。

 

トイレからぱくってきたロールティッシュも常にゴロゴロしていました。

 

そして、言い忘れていましたが、女子がほぼいなかったんですよね。

いるのは柔道部の全国大会にでるような短髪マッチョ女子でした。

戦ったら速攻でやられます。

 

ほんと辛かった。

この時ほどタイムマシンが欲しいと思ったことはなかったです。

 

今1500万円あげるから3年間あそこで過ごせといわれたら、即答で断りますね。

牢獄ですから。

いや、ちょっと揺らぐかな・・

野球部でのいじめ・再びくじけた

それでも当時の僕には目標があって、野球はそこそこ上手かったので、せっかく私学に入ったんだし甲子園を目指そうと考えていました。

 

野球部はそこそこ強かったので、無茶な夢ではないなと思っていました。

 

さすがに私学なので、部員の大半がスポーツ推薦で、僕のような中学校の部活あがりは全くザコ扱いでした。

 

そして始まった部内でのいじめ。

これまた、裏に呼び出されてはストレス発散にボカスカ殴られましたね。

徐々にエスカレートして、試合中のベンチでも嫌がらせされていました。

 

どんだけどつかれんねん!!

っていうくらい、僕の学生時代はなぐられ人生でしたね。

 

自分でも不思議ですが、なぜやり返さずにじっと耐えてたのかなと。

 

多分ですが、野球を続けたかったんだと思います。

単純に。

 

応援してくれている人とかもいたので、これで負けてしまったらその人たちに申し訳ないような思いがあったのだと思います。

 

今振り返ってみれば、全部自分で引き寄せているんですけどね。

引き寄せの法則とかいいたくないんですけど。

 

優しさだけじゃ生きられないんです。

ミスチルみたいですけど。

 

まあ学生時代の大半、イジメられすぎやろっていう。w

 

いいかげん爆発すればいいところを、変に耐え忍んでしまっていたんです。

いろんなことを。

 

野球部はいい加減、我慢の限界がきて、1年の夏でスパッとやめました。

アホらしいわ!と思って。

 

だけどその後、やることが全くなくなってしまいました。

そこからは自問自答の日々でした。

 

「おれはいったい何がしたいんだろう。」

「なんで人は生きているんだろう・・。」

昼間から公園でハトを眺める16歳

だんだんと学校に行くのもおっくうになり、無断で休むこともしばしばありました。

 

そんな時は、公園のベンチに座り、ハトを眺めるのが僕のルーティンワークでした。

 

「おれはいったい何がしたいんだろう。」

 

「なんで人は生きているんだろう。」

 

リストラ間際のサラリーマンのような感じです。

とにかくやりたいことも分からず、目標も立てられず、後悔の毎日でした。

 

進路を決めるときに、男女共学の公立高校に行ってれば、今頃友だちと楽しく青春生活をエンジョイしてるんやろなぁ・・。

 

って呟きが3年間、頭の中で3万リツイートくらいされていましたね。

経営悪化で授業料がはらえない

僕の親は土建屋さんを自営でやっていて、バブルの頃はそれなりに稼いでいた時期もあったようです。

 

ただ、いかんせん商売がほんとへたくそすぎて、人が良すぎるのか、いつもお金が残らないような経営を続けてきたわけです。

 

なので、収入はあるけど、裕福だと感じたことがあまりなく、なんでうちはお金のことでいつも家族がケンカばかりしているんだろうと、子どもの頃から不思議に思っていました。

 

お金のことで、母親はだいぶ苦労してきましたね。

 

中学の頃は、借金取りがよく家に取り立てにきていました。w

リアル版「お金がない!」です。

例えが古いですかね。織田裕二です。

 

一家最大のピンチだったのは、二度に渡る手形の不渡りをくらい、収入がゼロ。

 

職人さんにも給料が払えなくなってしまったことです。

 

当然、あらゆるところからお金をかき集めないといけないわけで、消費者金融のお世話にならざるをえませんでした。

 

後々、僕のバイト代も吸収合併されることもありました。

 

経営がグラグラに傾きまくっている中で、私学の高校なんぞにいってしまったものですから、親にとっては相当の負担だったと思います。

 

学校から月謝の催促状が届いて、どうしても期限までに払えないからって、母親が職員室まで行って、担任に期日をどうにか延ばしてもらえないかと相談に行ったくらいです。

 

母親、泣いてましたけど・・。

 

そんな親の姿を見ると、いたたまれない気持ちになりましたね。ほんと。

 

お金がすべてじゃないは、大ウソ!

 

お金がないと、大事な人を守れないし、子供を笑顔にもできないと感覚的に学びましたね。

 

けれども、うちの両親は「お金持ち父さん、貧乏父さん」を地で行くような人なので、

「お金、お金ばっかり言うたらあかん!人間ほどほどがええんや」

と言い聞かせ続けられました。w

 

ベタなお金のメンタルブロックですね。

 

まさに貧乏人の再生産工場です。

 

ということで、僕のティーンエージャー時代は、暴力を憎み、義務教育を憎み、貧乏を呪う12年間でした。w

 

おれは絶対、一発当ててビッグになってやる!!

とここからもう少し経ってから、強く思うようになってきました。

ドカタ養成学科で独学で英語を学ぶ

僕が進学した工業科の専門分野は土木科でした。

土木科ですよ!?超レアじゃないですか。w

 

製図描いたり、測量したりしていました。

 

よく中学の同級生からバカにされました。

「お前、土木って(笑)ドカタやん!」

 

職業差別もはなはだしいですが、高校生からしたら程度の低い仕事のようにしか思われなかったのだと思います。

 

今振り返れば、思い切った選択したなぁ、自分・・て思います。

 

たしかに、土木て・・。

時代先読みしてITにしとけよ。

 

卒業したらすぐに実家の土建業を継ぐ計画をしていたので、当然の選択やろ!って思っていましたが。

 

ただ、先ほども言ったように、クラスはアホばっかだったんですよ。

アホばかりの環境にいると、やっぱり自分も同じ意識レベルになっていってしまいます。

 

なので、当時の僕は、絶対こいつらには染まらんぞ。

と心に決め、スポーツバカ太郎たちとはほとんど会話をすることなく、残りの2年半を過ごしました。

 

彼らからすれば、そうとう鬱陶しかったと思うし、実際に陰口も言われていました。

 

けど、絶対に染まらないようにするために、何かに熱中しようと考えました。

 

そして英語の勉強を独学で始めました。

 

勉強自体は苦手ではなかったので、
(精神が病んでいただけで)

この環境から抜け出すためにとりあえず、英語を極めてやろうと思いました。

 

そして猛勉強をはじめました。独学で。

 

その高校は、実力テストが年に数回あったのですが、テスト内容は工業科も普通科も共通の内容でした。

なので、まずここで結果をだしてやろうと思いました。

 

そして、英語の実力だけはメキメキついていき、普通科に通っている友達よりもはるかに良い点を取れるようになりました。

 

やればできるんやって、この頃、超ひっさしぶりに思いましたね。

担任からのあの言葉を一生忘れない

勉強への意欲がわいてきた僕は、実家の土建屋を卒業後すぐに継ぐのをやめることにしました。

 

英語が楽しくて、もっと上を目指したくなったからです。

なんなら中学の英語教師でもいいかなと思うようになっていました。

 

そして、進路先を選んでいくなかで、衝撃的な出会いがありました。

 

大学進路を探す参考書に、”地球環境法学科 開設”という文字が目にとまりました。

 

なぜ気になったのかというと、僕は小学生の頃から地球環境のことを憂う少年だったのです。

 

20年以上も前から、僕は地球によりそって心を痛めてきたんです。

マザーディランです。

 

川の汚染やオゾン層の破壊。

当時の日本はまだまだ環境保全に消極的だったので、このままでは環境がヤバイ!と小学生ながらに悩んでいました。

 

なので”地球環境法学科”はオレのためにできたんじゃないのかい?!

と思ってしまうほどでした。

 

その学科では、世界をまたにかけて地球規模の環境を整備する法律を学べるとのことでした。

うろ覚えですが。

 

その新しい学科を開設した大学は、上智大学でした。

 

情報弱者で無知な僕は、上智大学がどれほどのレベルなのかもあんまり分かっていませんでした。

 

けれども、自分の人生の目標が見つかって、とにかく嬉しかったんですね。

これやっ!!ていうね。

 

そして進路調査票に”上智大学 地球環境法学科”と書いたわけなんです。

 

その高校の最底辺のクラス、土木科のアホウが意気揚々と書き込んだわけですね。

 

 

そしたら後日、担任に呼び出されてこう言われましたよ。

20年近く経った今でも忘れることができないですね。

 

「あのな、ダイヤモンドの原石には宝石用と工業用があるねん。工業用はどんだけ磨いても宝石にはなられへんのや。工業用にはそれに適した仕事がある。」

 

バッキボキに砕かれましたね。w

 

例えばなしを用いて、「お前には一生かかってもできひんことやから、悪い事は言わん。やめとけ!」とぶった切られたわけです。

 

言われたときは、「ですよね、ハハハッ」と笑ってごまかしましたけど。

 

やっぱりショックでしたね。

その当時は、何がショックなのかもあんまり分かっていなくて、ははは~って笑ってましたけど、

 

自分の人生の可能性はこの程度が限界!ムリっ!!

というのを、リアルに見せられたことが辛かったんだと思います。

 

これが教育者の言うことかって、いまだに思いますね。

「素晴らしい夢やな。上智大はそうとうレベル高いから、何回かすべってもあきらめずに絶対に受かれよ!」

 

って、うそでも言えなかったのかよオッサン!!

と、今でもツッコミたくなります。w

 

結局、僕はこのあと進路先を変更して、とある2流の外国語大学を受験しました。

 

その土木科からは初めて、外大への進学者が誕生したみたいで、すごいと驚かれましたが、どんだけ人を下に見とんねん!って話です。

 

もっと磨けば、いくらでも輝きは増すって話ですよ。

 

人の可能性なんて無限大ですから。

 

4年、5年かかっても上智に通っている自分も見てみたかった気はします。

 

今となっては、過去の選択が全部ベスト!と思えるので、行ってなくても良かったんですが。

 

あんまりだろ担任よ!とやっぱり今でも思うわけですね。

 

そんな悔しい経験があるからこそ、子供の能力を引き出す関わり方や、目標を達成するためスキルについて、異常に執着して研究してきた感があります。

 

関わる子ども、全員成功者にしたるねん!!って、教師になってから9年以上、ずっと思い続けてきましたね。

 

そのために、コーチングや目標達成、カウンセリングなんかの勉強で300万円は投入してきました。

 

それぐらい、あの頃の僕の復讐をしてやろうと本気なわけです。

 

当時の僕が、今の自分のような教員に出会えてよかったと思えることをいっぱいしてあげたいと常に思っています。

 

そして、うぬぼれではなく、実際にできていると思います。

 

ロールペーパーぐるぐる巻きにされるの刑

 

僕よりも授業がうまい、クラス経営がうまい教師はくさるほどいますが、子供の能力をグイグイ引き出すコーチンングスキルは日本の教師の中ではトップレベルだと思っています。

 

勝手に思うのはタダなので。w

 

そんなわけで、学生時代の苦い経験が今の自分には発奮材料になっているので、すべて結果オーライということだと解釈するようにしています。

 

ということで、地獄の4丁目、【第二章 高校~進路編】はここまでです!

ここまで読んでいただきありがとうございます。

 

第三章は、いよいよ人生の花が開きはじめる、『大学生~バンドマン編』を書こうと思います。

はちゃめちゃな人生がここから加速していきますので、興味のあるかたはぜひ読んでみてくださいね。

 

それでは最後までお付き合いありがとうございました!

 

12 COMMENTS

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です