ディラン先生の自己紹介・第三章【大学~バンドマン編】見た目から入って人生が好転

 

ディラン先生の自己紹介

第一章【小・中学校編】
義務教育で精神を崩壊

 

第ニ章【高校~進路編】
担任のあの言葉だけは忘れない

 

第三章【大学~バンドマン編】 ⇐いまここ
見た目から入って人生が好転

 

第四章【教育実習~教師編】
人生はそう、ジェットです!

 

こんにちはディラン先生です!(@dylan_sennsei)

 

当ブログにお越しくださりありがとうございます。

 

この記事は、ディラン先生の自己紹介・プロフィール【大学・バンドマン編】となっています。

 

こんな内容です・大学金髪デビューで人生が好転
カタチからはいるのは結構大事

 

 

・バンドを始めて1か月、プロになれると悟る
むかうところ敵なし時代

 

 

・バンド・バイト命
キングコング、西野亮廣と出会った

 

 

・音楽で飯を食うのは上智大入るよりムズイかもな
盛大なる挫折を味わい、引退

 

今回もハチャメチャな僕の人生、回顧録となっております。

 

ディラン先生に興味がなければまず最後まで読んでいただけないかもしれませんが。w

 

教員がこんな人生を歩んできたの?!って思える内容かと思いますので、楽しんで読んでいただけたらと思います。

 

ではまいりましょう!まずは大学編です。

大学金髪デビュー!

ドカタ養成学科から外国語専門の大学に進学することになった僕は、これを機にこれまでのうす暗い人生をすべてリセットしようと心に決めていました。

 

中学校まではザコキャラだったのに、地元から離れた高校に通いだしたとたん、

「おれ、めっちゃ悪かってんぞ」ってイキりだして、やってもない武勇伝を捏造する、

 

いわゆる”高校デビュー”というものがありますが、

 

僕はそれよりも3年も遅い、大学デビュー組でした。

 

自分のすべてを変えるためにどうしたらよいかを考えて出した答えが、

「よし、ブリーチしよう!」でした。

 

せっかく外大に通って外国人が多いわけだし、大学なら個人の身だしなみにいちいち口を挟んでこないだろうと思いました。

 

アホですね。

いや可愛いです。真っすぐですね。

 

大学生の3年間くらいはずっと金髪のマッシュルームヘアー&ブラックスリムパンツでした。

 

ビートルズやストーンズなんかの、70年代のブリティッシュパンクや、60年代のマージービートってのに憧れていたので、ただただマニアックで扱いにくい大学生。

 

見た目が変わると、心も自然と変わっていきます。

高校までは、いつ消えてしまってもおかしくないような根暗で、人間不信で、社会に絶望していた男子高生でしたが、

 

大学デビューをきっかけに、かつて(小学生の頃)の天真爛漫さが戻ってきたような感じでした。

 

大学に入るまでは、超マジメというか、苦しいことがあってもじっと耐え忍ぶことが大前提としてありました。

 

多分、親の影響。

 

ですが、大学に入ってからは、

何かがぷち~んっと音をたててはじけたように、自由人まっしぐらでしたね。

 

自分の人生を取り戻す!!

分かりはじめたマイレボリューションなわけですね。

音楽サークルで人生が好転し始める

高3でエレキをかじったもののすぐに挫折しました。

 

けれども、歌は昔から得意(カラオケ程度)で、音楽の才能があるんじゃないの?

と自分では思っていました。

 

なので、せっかく外大に入ったわけだし、バンドを始めよう!と思ったわけです。

わけわかりませんが。

 

この選択が良くも悪くも、ハチャメチャな人生の始まりとなりました。

 

3か月ほどバイトに明け暮れてから、音楽サークルに入部したので、友達もいない状況でいきなり夏合宿に参加しました。

 

その夏合宿で、ネタバンドをやろうということで、メタル版ミッシェルガンエレファントのコピーバンドをすることになったんです。

 

けれども、だれがボーカルをするねん?!っていう話になったわけですよね。

 

チバユウスケの歌声なんて普通の大学生にはムリです。

ノドから血がでます。

頭の線が5,6本は切れます。

 

僕のこれまでの人生は、ほぼ我慢と諦めでしか構成されていなかったので、やれるかどうかは別として、

 

オレ、やります!

 

という選択をしないと、いつまでも変われないとその時、直感で思ったんですね。

 

そして、その決断が人生を大きく好転させることになりました。

やってみたら、めちゃめちゃはまったんです。チバユウスケの声に。

 

というか、チバユウスケに寄せていったという方が正しいのですが。

 

僕の声は、どちらかといえば、か細く、マイルドで、自分の声がコンプレックスなほどでした。

 

なので、その合宿でやったことは、スタジオ練習の前にウイスキーでうがい、歌の個人練習の前に日本酒でノドを焼く。

 

もんたよしのりかよ!

 

そんなことをして、歌いまくったわけですね。

 

そうして、僕は長年コンプレックスだったマイルドボイスを手放し、酒やけしたハスキーボイスを手に入れることになりました。

 

それ以来、僕はそのサークルでは一目を置かれるボーカリストとなり、いろんなコピーバンドの誘いを受けることになりました。

 

新入生を勧誘するイベントでもライブをして、そのライブで影響をうけた新入生がたくさん入部してくれるようにもなりました。

 

人に必要とされるって、こういう感覚なんだと、その時初めて実感したように思います。

 

自分のようなクズな過去をもった人間でも、なにか1つ人よりも飛びぬけたものを身につければ、人生は一瞬で好転するとその時学びました。

 

僕は、大学に入ってからバンド活動とバイトに明け暮れていたので、勉強はほぼせずに過ごしていました。

 

今考えれば、親には大変申し訳なく、アホアホ大学生なのですが、生のどん底から這い上がるための本質を、バンド活動でつかむことができたので、僕にとっては必要なことだったと思います。

 

多分、高校生の僕のままだったら、今頃引きこもりをしているか、最悪この世にいないかもしれないです。w

 

なので、人生において寄り道は大いにしたらいいと僕は思っています。

 

その道の途中で、自分の見ている世界を越えたところに、とんでもないギフトが転がっていますから。

バンドを始めて3か月、プロになれると悟る

いきなり引く手あまたの状態になったので、僕は調子に乗りました。

 

いや、それで良かったんです。

 

ぶっちゃけ、プロになれるとそのとき確信しましたね。

余裕やん、と。

 

外大で僕は中学校の英語の教員免許をとるつもりでいました。

 

その当時は、かなりの就職難の時代で、正規の教員になるためには10倍以上の競争率の中から勝ち抜かないといけない状況でした。

 

そんな状況も手伝って、僕はあっさりと教職課程の履修をやめ、必要最低限の単位しか履修しないようにしました。

そしてできた時間はバンド活動とバイト活動に費やしました。

 

後から振り返れば、なんとコスパの悪い選択をしたのかと、ツッコミたくなりますが、当時の僕には先を見通して考えるアタマはありませんでした。

 

とにかく、音楽で一発でかいのをあてて、

人生大逆転じゃー!!って、20歳そこらの大学生は本気で考えていましたね。

バンドとバイト命!
西野亮廣がいた

大学生はとにかくお金がないので、夜は大体バイトをしていましたね。

 

イベントスタッフや引越しのバイト、花屋でも働いていました。

 

そのなかでも今でも強烈に覚えているのは、今や起業家のカリスマ的存在、キングコングの西野亮廣さんと同じバイトになったことです。

 

コンサートのイベントスタッフの仕事なんですが(ステージに背を向けて、2時間、客席をじっと監視し続ける仕事)、そのバイトの面接の時に初めて出会いました。

 

集団面接で、一人ずつ自己紹介と志望動機を話していくのですが、一人やったら声がでかくて、はきはきと自分の考えを話すやつがいるなと気になっていたんですね。

 

「僕は、人前に出たり、人と関わることがすきでー、どうのこうの」

 

しゃべりはじめだけですが、今でもはっきりと覚えています。

 

西野さんとは同い年ですが、こんなしっかりしたやつがいるんだなぁと当時の僕は圧倒されてしまいました。

 

きっと仲良くはなれないタイプだ・・。と。

 

後日、ラルクアンシエルのコンサートの警備を依頼がきました。

 

その日、4,5人のグループに振り分けらられた中に、西野さんもいました。

 

坊主アタマで、顔濃いなぁコイツという印象でした。

けっこう人懐っこいというかフレンドリーで、積極的に話しかけてくれて、すぐに仲良くなりましたね。

 

帰り際に携帯番号も交換しましたが。

たぶん本人は覚えていないでしょうね。w

 

そのイベントスタッフの仕事は超劣悪な内容で、ラルクのコンサートの警備だけでなく、その後のステージや会場の解体作業もこみこみでした。

 

たしか、朝に集合して、解放されたのが夜中の4時くらいでした。

 

始発がないので、テントでひたすら時間をつぶしていました。

そんだけ働かされて、日給7000円くらいだったと思います。

ブラックどころの話ではないですね。

 

テントで時間つぶしに、西野さんと話している時に、

「おれはお笑い芸人をやっていて、こないだお笑い新人賞をとった」

と話していました。

 

コンビ名は?と聞くと、「グリーングリーン」と言っていましたが、たぶんその当時はすでにキングコングだったと思います。

 

「グリーングリーン」は梶原さんと組む前なので、フェイクですね。w

 

それ以来、西野さんとは会っことはないですが、いつか会える機会があれば当時のことをお話ししてみたいものです。

働けど、働けど暮らしは貧しいバンドマン

大学を卒業してからも、当然バンド活動は続けました。

 

バイトだけでは、経済的にもたないので、契約社員のようなかたちで昼間は会社員、夜はバンドマンという生活を何年も続けていました。

 

仕事はマジメにテキパキとやるので、どんどん大事な仕事も任されるようになりました。

上司に気に入られていましたね。

 

もうバンドなんぞやめて、仕事一本でいけよ!と会社の社長によく言われましたが、そこは最後までおれませんでした。

 

ただ、仕事で得た収入は、ほぼバンド活動費に消えて行きました。

 

僕はバンドの首謀者だったので、ツアーに使うための車も自分で買いました。

 

レコーディングなどにも何十万と投入したため、一時期、百万円以上の負債を抱えてしまうことになりました。

 

バンド活動は想像以上にお金がかかります。

時間も取られます。

コスパ悪すぎです。

 

そんな感じで、一人抜け、二人抜けと音楽活動も常に不安定な状態でした。

 

ちなみに、初期メンバーの一人はなんと、西野亮廣さんと同じ高校の同じクラスだったそうです。

つながるねぇ。

栄光からの急転直下!音楽、もうやめます

それでもあきらめずに、続けていれば光は差し込むものです。

 

じょじょにファンが増えていき、地元、大阪ではそこそこ知られるバントに育ってきました。

 

そして、CDアルバムを出さないかと東京のレーベルから声をかけていただきました。

 

ウルフルズのウルフルケイスケさんに出逢い、デビューアルバムの帯にコメントを頂いたり、

 

フラワーカンパニーズのギタリスト、竹安賢一さんやメンバーのみなさんに、たいそう可愛がっていただいたりしました。

 

ラジオや雑誌の取材を受けたりと、普通に会社員をしていれば到底味わうことのできない貴重な体験をしまくりましたね。

 

バンドもいよいよ勢いづいてきて、セカンドアルバムをリリースをしたときに事件はおこりました。

 

リリースして直後に、主要メンバーが脱退することになりました。

 

ま、まじすか?!

です。

 

なんとか立て直しを図りましたが、僕も残ったメンバーももう疲れ果ててしまっていました。

 

ということで、無期限の活動休止。

事実上の解散をすることにしました。

音楽でメシを食うのは上智大より難しいかもな

ですが、当時の僕は音楽で成功することしか眼中になかったので、落ち込んでいる暇もないと、すぐに立ち上がってソロ活動を開始しました。

 

僕は売り込み営業がめちゃめちゃ得意なんです。

バンド時代も、いろんなコネクションや仕事をあらゆるところから次々と取ってきていました。

 

なので、ソロになってからも営業活動をしまくりました。

その甲斐あって、音楽業界で影響力のある方ともつながれるようになり、ある事務所の社長を紹介していただくことになりました。

 

音楽通の方ならご存知かと思いますが、憂歌団の木村充揮さん所属する事務所でした。

知らない人はググってみてくださいね。

 

日本の音楽業界、ブルース界隈ではトップに君臨する憂歌団の木村充揮。

そのあとがまになるミュージシャンを探しているとのことでした。

 

事務所が全面的に君を売り出すと言ってくださいました。

 

まさにシンデレラボーイですね。

やっとチャンスを掴むときがきた!と思いました。

 

あれよあれよと話が進んでいき、木村充揮さんの前座でツアーが組まれました。

 

野外フェスにも出ることができました。

 

ジュンスカの‎宮田和弥さんや寺岡呼人さんとも共演させてもらいました。

 

SMAPやマッキーにも僕の音源を渡していただけました。

たぶん聴いてないだろうけど。w

 

音楽番組で一緒になったからだそうです。

 

デビューアルバムをすぐに作っていこうという話になり、超強力なメンバーを揃えると言っていただきました。

 

なんと、忌野清志郎さんのバンクバンドを務めていたミュージシャンに次々とアポを取り始めたんですよね。

 

その社長はかなりの人脈があるので、アルバムの帯には甲本ヒロトさんにコメントもらおうか、とも言っていました。

 

僕にとっては、忌野清志郎さんも甲本ヒロトさんも『ネ申』なわけで、震えあがるしかなかったですね。

 

もう後に引けないなと思いました。

なんだか、自分の世界を越えたところで、わけの分からない現実が動き出しているようでした。

 

しかし、全国数万人の売れないバンドマンの誰もがうらやむ超ビッグチャンスを、僕は結局つかむことなく事務所を辞退する選択をしました。

 

な、なんでー?!

ですよね。

 

もったいない気もしますが、いけるかいけないかは感覚的に自分で分かるんですよね。

この状況で続けても、結果は出せないと。

 

とうのも、僕はソロシンガーとして、斉藤和義や秦基博のような音楽活動ができるんだとばかり思っていました。

 

けれども、事務所の意向としては、バンド時代の音源がたいそう気に入っていたため、バンドメンバーを新しく集めてパンクなロックテイストの曲を作っていって欲しいとのことでした。

 

手配していただいたバンドマンと数回スタジオに入りましたが、当時のメンバーが醸し出すグルーブ感には到底およびませんでした。

 

その時に気づいてしまったんですね。

 

曲も歌詞も作っていたのは自分だけど、ここまでのし上がってこれたのは自分一人だけの力じゃないってことをです。

 

そして一度消えてしまったバンドの熱を再燃させるだけのパワーが残っていませんでした。

 

それから一気にモチベーションが下がっていってしまいました。

丁度そのころ、友人が転職して教員になったという話を聞き、いっそのこと教員になって、その状況から逃げ出したい気持ちが日に日に大きくなっていったんですよね。

 

正直なところ、夢が叶っても、その先にある、夢が叶わない現実を目の当たりにするのが、怖かったんです。

 

ひたすらどうすればいいか何日も悩みまくりました。

そしたら僕のそんなどっちつかずの態度をみて、事務所の社長が激高してしまったんですね。

 

「やるのか、やらんのかどっちやー!!」って。

 

そして、予約していたレコーディングスタジオ、サポートミュージシャン、ラジオのレギュラー枠など、全ての予定をキャンセルされてしまいました。

 

いわば、戦力外通告です。

 

もう真っ逆さまという言葉が、日本一似合う男だったと思います。w

 

全て自分で選んだ道です。

栄光も挫折も。

 

これを機にもう音楽活動は辞めようと決心しました。

向いていないんだと。

 

たくさん所有していた高価な楽器も次々と売り払い、再び大学に通うための資金に変えました。

教師になるためです。

 

こんな感じでどこまでいっても空回りの不器用ボーイだったわけですね。

 

時間とお金は相当費やしたが、無駄ではなかった

きっと普通に仕事して生活しているよりも、数十倍の失敗を経験してきたと思います。

 

濃い~、濃い~20代をすごせたことは、今振り返れば貴重だなと思います。

 

こんな経験をしてきた教員もまぁ、いないでしょう。

 

僕がよく思うことは、今の僕のようなメンタルコーチがそばにいたら、どんな未来を手にしていたんだろうということです。

 

すごく興味があります。

 

誰でも、人生の大きな岐路に立つ時があるかと思います。

 

そんな時に一人で悩みだすと、同じところを何度もぐるぐると回って、自分の望んでいないような答えを出してしまうことがあります。

 

アスリートでも、アマチュア時代に天才と言われていたのに、プロになることをあきらめて、一般人として普通に生きていく選択をする人もくさるほどいます。

 

テレビでやってますよね。あの天才はいま!みたいな番組。

もう終わったのかな。

 

はたからみれば、なんてもったいないことを・・。て思いますよね。

 

本人が悩みぬいた末に出した答えなので、それで後悔がなければそれが一番です。

 

だけど、チャレンジすることを恐れて、やる前から無理だと判断してしまって、夢を諦めてしまうのはもったいないなと、今なら思うわけなんですよね。

 

そんな迷える人たちにおせっかいを焼きたいなと。

 

なので僕は、教員としてでも、教員でなくてもいいんですが、子供たちが前向きに夢に挑戦できるようなサポートをしたいと思っています。

 

僕の人生のミッションの一つに、当時の自分のように夢で悩んでいる人を手助けするということがあります。

 

実際に、今は世界チャンピオンを目指しているプロボクサーの専任メンタルコーチをしています。

 

毎回、いろんな気づきを得てくれるのが、サポートしていてすごく嬉しくなります。

復活ののろしをあげますぜ、そろそろ!

結局、長年の僕の夢は不発弾におわったわけですが、全て無駄ではなかったと思います。

 

教員としても、過去の経験という最強のアイテムを活用できます。

 

そして、僕の中のバンドマン魂はどうやら死んでおらず、復活のタイミングを見計らっています。

 

今だからこそ分かったことですが、音楽活動を存分にやりたいのなら、レーベルや事務所に頼ろうとしないことです。

 

そこで何かしらの契約をむすぶことは、奴隷契約をするようなものです。

 

自分の望む音楽を続けたいのならまず、

・十分な収入源を作る

 

・時間の余裕がもてる働き方をする

 

・十分な資本で、売り込みやCDを制作して音楽活動を満喫する

こっちの方がよっぽどハッピーなバンドマンになれると思います。

 

僕はいまそっちの方向で、復活の道すじを作っています。

 

45歳には夏フェスに出る。

当面の目標ですね。

おわりに

ということで、だいぶ長くなってしまいましたが、楽しんでいただけたでしょうか。

第三章 【大学・バンドマン編】はここまでです。

 

第四章は、【教員・現在編】になります。

僕の人生には安定という文字がなかったのですが、いよいよ公務員というザ・安定の職業につくことになってしまいました。

 

どんなドラマがまっているのか、楽しみにしていてくださいね。

貴重な時間をありがとうございました!

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